けいおん!Blue-Ray

 買ってないけど。デモ見たらアプコンじゃなくてちゃんとHVらしくておろろいた。
 地上波がサイドカットだったり、BS-TBSが画質悪いとかは、著作サイドの戦略というのならそれで特に文句をいうところではないけど、それなら事前に16:9HV制作であり、Blue-Rayでしかそれは見られない予定―ということを知らせて欲しいと思う。初見の印象はすごく大事なんだ。つか自分は基本的に同じアニメを2度3度見ないし。
 少なくとも、Blue-RayのCMを、4:3や、画質悪い状態で流すってのは、意味がわからない。まぁそれはけいおん!に限らず、4:3LBでBlue-RayのCM流してる作品にも当てはまることですけど。「高画質」という字面を見るよりは、その「高画質」の画面を自分のTVで見たいわ。
 「最近、インターネットで…」とかだけを流すんじゃなくて、「局の意向で低画質で放送しています。また、製品版とは表現が異なる場合があります…」とかも流せばいいのに。少なくとも自分は京アニにはHV制作環境がないのかと思っていたよ。本編で流すと視聴率が欲しい放送局的にイヤンかも知れないので、それならCMの方に「放送ではダウンコンバートした本作をオリジナルの高画質で収録」とか書いてくれれば。
 基本的には局の意向なんだろうけど、戦略的にイイのか、ハルヒはわざと4:3LB放送にしてる臭があったりするし。(提供画面を4:3にすることで、局側でズームされるのを防いでいる tvkとMX以外は知らないけど)
 どういう形態で放送するかは作り手側の自由だと思うけど、そこに騙そうという意思が見えるとイラッとするよね。Blue-Ray = 高画質 と思わせといてただのアプコンとか、SD放送して、DVDしか出さなかったのに、実はHV制作だったとかさ。無駄に高いもの買わせようとか(SD画質をHD画質化するなら再生機でもそれなりにできる)、DVD買っちゃったあとに、Blue-Rayも買わせようとしたりとかね。
 まぁ先の印象よりとにかく今の金ということならそれはそれで考え方のひとつだけども。そういう意味でも、アプコンと思わせといて実はもともとHD画質という今回のけいおん!は意味がわからない。戦略意図は? 意外性?
 BSじゃ出ないけど、地上波で出る「HV制作」のテロップは嘘が多いので、局的には「HV納入」でいいんじゃないかと思う次第。要は納入された時点での解像度がHVだっただけでしょ? SDアプコン+テロップHVとか、HalfHDとかいろいろあるのよ。かといって局への納入がそうなだけで、実際はデチューンだったりすることもあるわけで。
 デチューンを見るってのは、その作品の全体を、その作品の意図をそれでは見切れないってことで、現状の放送がその作品の全力なのかそうでないのかの情報は、その作品に対峙するにあたって、結構大事なものだと思う。「よくわからないのはデチューンされているから」というのなら諦められるけど、それが全力ならわかるための情報が既に含まれていたということになるので。感想を書くにしても、全部を見たと思って書くのと、全部は見せられていないと思って書くのとでは内容が変わることもあるわけで。PMPで見たアニメの感想を書くのをためらうのと同じ。映画館で見ずにDVDで見て感想を書くのにも似てる。ちゃんと見てないのに、何か語っちゃうのは申し訳ないみたいな。
 そういうことでいえば、けいおん!の感想は、Blue-Ray Discで、フルHDのTVで、初見で見た場合のみ、「ちゃんとしてる」と言いたい風。
 先に放送を見てしまうことで、もう「初見」にはなれない。情報開示がないということは、一度しかない「初見」を選ぶ権利を与えられていないってことなんだよね。一度目の感動は、二度目では味わえない。二度目の画質がよかろうと、それは「二度目」でしかないのよ。
 湯気なんかも外すのか外さないのかはっきりしてほしいよね。SD化されるよりかはデチューンわかりやすいけど。まぁ湯気がない方が落ち着かなくて苦手なところもあるけど。

何か愚痴る日

 自分がはじめた頃は探しても10サイトぐらいだったのになー。…と古い話をしたいわけでもなく。
 これだけ多いと、「感想」というひとくくりではなく、さらなるくくりでもっと落ち着くコミュニティ内に収まりたいかもと思う今日この頃。
 感想サイトが多いのはいいけど、つまるところナビゲーション不足なんだよな。取り扱い作品、感想頻度、文体、視点…そういった内容からの検索システムや、ユーザー傾向から導きだすおすすめサイト提案とかその辺がないと、自分の昔からの行きつけをぐるぐるするか、膨大なサイトの海で溺れるかの2択になってしまう。
 どこかに救世主はいないもんか…。
 最近、自分は無職してる方が世の中のためになるんじゃないかと思ってしまうことが多い。単に怠けたい病なだけだし、実際はそうでもないんだろうけど、家に引きこもって金にもならないやりたいことはたくさんあるわけで。
 まぁ無職状態になったところで、見るアニメが80本とかあるんじゃ、結局これといってできることは少ないんだけどね。
 休息の域を超えた娯楽の時間って、社会的に見ると「経済的損失」にあたるような気がしないでもない。消費して金を回すことはしていることもあるかもしれないけど、そもそも働いて生産を増やすことの方がおろそかになってる…ということはないのだろうか。少なくとも自分はアニメを見る時間を捻出するために、いくらかまじめじゃない社会との関わり方をしているし。
 そういったアニメやゲームがあふれかえることによる「損失」に目を向けてみると、アニメは本数を減らした方が全体的な儲けは増えるんじゃないの? と思ってしまうよね。働かず学ばず家にいても1日が長いだけでおもしろいことは特にない…という状況ならば、ヒマつぶしにでも働く人は多いと思う。現状は、家にいればいるだけやれることがある、楽しいことがある…そんな状況。それではやる気も出ませんよ。足りているなら、求めない。
 つか積ん読積みゲー、溜め録り…って明らかに供給過多だよね。それほど必要に迫られていなくて、それほどやりたくもないのに、そのせいでやりたいことができない状態って、何かアンバランス。
 娯楽は高価で少量の方が、たぶんうまくまわるよ。全員が同じゲームやって、同じアニメを見るぐらいでさ。(それを懐古主義という

ここに書く話でもないけど

Amazonからのメールに書いてあった
http://affiliate.amazon.co.jp/gp/associates/network/help/t50/a2
がリンク切れしていたので、一番最後のa2を削ってみたら

https://affiliate.amazon.co.jp/gp/associates/help/t50/
9月から全商品上限1000円になるの?
3月にゲームでその上限が入ったばかりなのになぁ。

もうアフィでの集客を頑張らなくてもよくなったってことなのかね。

「原作未読にOAD」

下書き。

原作漫画の初回版にアニメDVDをつけるパターンが最近多くなってきているようで。
ちょっと調べたら最初は「ツバサ」の初回版についてたそうですが、
それすらさっき知りました。

原作を買い続けている人にとっては、
原作漫画の出る周期はだいたいわかるだろうし、
欲しいと思えば買うのはさほど苦にならないし、
アニメDVDがいらなきゃ初回版じゃないのを買えばいいだけの話なのですが

アニメオンリーで、基本的に“アニメの”初回版には特に興味がなく(映像さえ見られればよい)、
「売ってるうちに買うか、どうせ積みDVD化するんだから値下がりした頃の中古でもいいんじゃね?」
とか思って、新作セル媒体アニメ情報へのアンテナを怠っていると、

OADの存在をすっかり見失うのです…。

んで、このOADのDVDつき原作漫画のいただけないところが、「初回版のみ付属」ってことで、
プレミアがつくことはあっても、中古で値下がりを待つどころか、予約なしでは定価で買うことも難しいっつーとこで、

「自分としては積みDVDになるだけなことにかわりはないのに、なぜか必死にならないと手に入れられない」

という何だか面倒な仕掛けなんですよ。
自分のテンションとするべき行動が噛みあわない。

つかそもそも、原作漫画は欲しくも何ともないし、原作未読状態でアニメを見たい派だから、むしろ近場にあるのは迷惑極まりないとも言える。

原作オンリー派は、アニメのあるなしを選ぶことが出来る。が、アニメオンリー派は、原作のあるなしを選ぶことができない。

今までのネギま!スクランは、原作知識前提の「アニメオンリーでは話がわからないところをアニメ化」ということで、アニメオンリー派に対しては「見なくていいよ」というフィルターがかかっていた(と思う)。言ってしまえば、原作を追い続けてきてくれた人に対するプレゼント的なアニメ化 ということに。

でもこの前出た獄・さよなら絶望先生に関しては、「(アニメの内容的には)アニメオンリーでも行けるんじゃね?」みたいな雰囲気を感じまして、そうなると上記のいただけない仕組みにイラっとするのです…。

OADつき原作漫画本を出すことに関しては否定しないけども、上記の問題点

  1. 初回版にしか付属しておらず、アンテナ張ってないと購入が通常DVDに比べて困難である
  2. OAD側からすると、必ず「原作漫画」が付属してしまう

というところは、アニメオンリー派としては解決して欲しいと思うところではあるのですわ。

つまり、やって欲しい販売パターンとしては

  • 【書店】原作漫画のみ(現行にもある、絶版になるまでいつまでも再版・購入可)
  • 【書店】原作漫画+OAD(現行にもある、初回版のみという販売形式でも可)
  • 【DVD屋】OAD+原作漫画(あくまでDVDメイン、書店と同様に最新の原作本と併せるか、OADになっている話の原作漫画を収録するかは考えどころ、DVDの初回版特典という形式でも可)
  • 【DVD屋】OADのみ(通常のアニメDVDと同じ販売経路・販売形式で)

この4つ。
これだと、初回版にこだわらなければ、原作漫画はいつまでも買えるし、OADもいつまでも買える。「読む」「見る」ということに対する制限は少ない。まぁヘビーなファンは4種類も買わなければならない状態になってしまって大変だけれども…。


というかアニメ至上主義としては、原作の“オマケ”にアニメがつくということ自体がキモチワルイというか納得いかないというか…。原作は主でアニメは従なんか? アニメは原作の二次創作でしかないんか? アニメ至上主義を全力で行くと、原作はアニメになるための種のひとつでしかないやい!(遠吠え)

とりあえず「講談社OAD企画」さんにはOAD企画の公式サイトを用意してもらって、コンセプトとターゲットを明確にしてほしいわ。「アニメオンリー・現状で原作の最新刊まで届いていない人は本企画の対象外です、いつか原作を読んで今回のOADが見たくなったとしてもそのときは通常の方法では見られません」とでもはっきり書いておいてくれるのであれば、この企画に手を出すいわれはないので、心おきなくスルーできますからね。

「アニメオンリー派を原作畑に引っ張り込もう」という心づもりも少なからずありそうな気配は感じますけども。原作にアニメをくっつけて売るなんて、アニメをエサに原作を売るなんて、書店の販路から出ずにアニメを売るなんて、ちょっと曲がった見方をすれば相当いやらしいよこれ。

まぁ、儲けたいのは経済人として当然でしょうからやいのやいの言うことはないんですけど、発売後ひと月ぐらいは本屋に行ったら買えるぐらいは流通させてくださいよ…。(本音)

※このエントリーは下書き状態なメモ書きなので、言葉のトゲが落とし切れていません。その内もうちょっとやわらかく書く予定。調べずに書いているとことか、繋がってない文章とかも多々あるし。

「デフォルトが『切る』というスタンスのアニメ視聴(想像)」

 つづき。

 デフォルトが「切る」というスタンスで取捨選択をした場合、見続けることにした作品は「選ばれた作品」であり、その人にとって「おもしろくあり続けなければならない」という位置づけになるのではないかと思います。

 そう考えると、最近よく見られる、「ちょっとつまらない話があるとやたら怒る」「ちょいと絵が崩れると相当残念がる」「話が超展開すると萎えてしまう」というアニメ感想にも納得がいく感じ。「選んだ作品は自分の思ったとおりに思った方向性のままおもしろくあり続けなければいけないのだ」という線から作品が外れてしまうと、それはもう自分が「選んだ作品」ではないということになり、興味の対象外というか自分の気持ちを裏切ったという感情が強まって、怒りや呆れの方向に進んでしまう…のではないかと思うワケです。

 対して何でも楽しむ多量見さん…というかオールドタイプとしては、デフォルトは「見る」なので、作品の変化に対して柔軟に楽しみ方も変化させて、ときにはその「ダメさ」すらも楽しむ要素にして見てしまうものでして、軽い下降や軽い迷走ぐらいでは、そんな強い感情は全く生まれないワケです。期待値(テンション)や作品に期待するものを微妙にコントロールして、現状の作品に合わせていき、決して見続けることと楽しむことを諦めない…。

 うーん、随分な温度差です。

 例によってどちらがいいかとか言うつもりは全くありませんが、視聴者が一分のブレも許容できないとなると、作品を作る側は相当大変になるんじゃないかと思ってしまいますな。ただただおもしろいモノを奉仕し続ける存在という扱いになってしまうということだから、より窮屈にね。

 これもまたアニメが多すぎることに起因する件だから、やはりアニメの本数を減らしていこうぜ!(またそれか) 本数問題ではなくアニメを商品にしすぎた弊害に思えなくもないけど。

 まぁでも、そんなに青筋立てて怒らんでもええやないのとは思うなぁ。一緒になって怒ったり貶したりしているワケではないから、怒ったり貶したりしてる文章を読むのはあまり楽しくなく。感情に嘘をつくことはないけど、怒りながらも笑いを入れるとか、そういう際でも気遣いや愛があってもいいんじゃないかなー、と。

「切る理由?見る理由?」

 もう結構前の話になりますが、某アニメを見てる/見てた ということを話した際に、

「何で切らないんですか?」

と、言われたことがありまして。何気ない言葉だったのですが、自分としてはその言葉が妙に引っかかってしまいました。この引っかかりが何かと考えてみると、このアニメ多量供給時代において、

  • 切ること:理由はいらない
  • 見続けること(切らないこと):理由が必要

という新基準に違和感=引っかかり を覚えていたからなんだと気づきました。自分の感覚的には、別に自分のように何でもかんでも見続けるようにするのが当たり前とかまでは言うつもりはないけど、

  • 切ること:切る理由があること
  • 見続けること(切らないこと):切る理由がないこと

という感覚があって、「切る理由(作品の悪いところ)を探しながら新番チェックをするのが嫌」というのも多量見をする理由のひとつとしてあったりするわけです。見られる本数が限られている中、どーでもいい切る理由を探しては新番を切り捨てて本数を調整していく…そういう感覚が意外と心苦しくて、「見続ける」前提で「切る理由探し」を放棄した結果、現状の多量見に行き着いた…という一面もあります。

 でも、新基準においては、デフォルトが「切る」であるから、切ることに対する心苦しさ(罪悪感)がなく、積極的に見続けていく理由がある作品のみを見ればいい、という感覚に置き換わっているようなのです。新番チェックでするのは「切る理由探し」ではなく、「見続ける理由探し」…言い換えれば「よかった探し」、減点方式ではなく、加点方式。

 考えてみれば、これだけアニメが溢れている世の中なら、こういう考え方は至極当然でした。…が、自分にはそれまでそういう感覚があることを考えられずにいた、と。

 で、話を戻すと、「何で切らないんですか?」と言われた際に、「えっ?切らないことに理由がいるの?」という軽いジェネレーションギャップみたいなものを、感じていたということではないかと、今にして思うわけです。確かに、どんな作品でも楽しむことができる多量見スキルは多少持ち合わせていようとも、向こうの思うような「積極的な見続ける理由」がある作品はそれほど多くなく、その「何で」の問いに対しては「切るまででもない理由」はあっても、強い「見続けたいと思う理由」は特にない…つまり回答に詰まるワケでして。

 逆に、そういう新感覚の人に、「何で切ったんですか?」と聞いたら、回答に詰まるのかも知れないな。

「アニメを見て、見続ける番組を選ぶ」という点では全く同じなのに、感覚的にはずいぶんな違いがあるんだなぁ…と思った出来事でした。まぁ実際のところはそんな両極端な話ではなく、見る理由と切る理由のバランスで見続ける作品を選んでいるというのが大多数なんだろうけど。

 自分としては、ちょっと合わないかな? と思えるようなものであっても、見続けることで見えてくるもの(開眼)もあると思うので、ちょっと合わないと思うこと自体が「見続ける理由」になっているのかも。合うアニメはそのまま見たいわけで、結局全部見たい、と…。

「寝起きのアニメに思う体感時間」

 光希桃は子どもの頃から脈が速くて、平常時で100回/分 前後、運動直後では200回/分ぐらい出ます。動物の寿命は脈打った回数で決まるという説もあるようなので、このまま生きていけても早死に確率はとても高そうです。んで、ハエの体感時間は人間の数十倍早いという説もあるようです。

 成人の脈拍がだいたい60〜70ですから、上の説をあわせて、脈≒寿命≒体感時間とすると、脈の速い光希桃は、通常の人より体感時間が早いということになります。脈拍100で通常の1.5倍ぐらい?体感時間1.5倍というのは、必ずしも1.5倍多くのことを考えられるとか、1.5倍速く動けるということではなく、言ってみれば時間の分解能で、単位時間をどれだけ分割して感じることができるかではないかと思っています。デジタル的に時間の解像度といってもいい。

 ちなみに幼児の脈拍も100以上あるのが普通だそうで、歳を重ねるごとに1年を短く感じていったりするのもそのせいもあるのかな? と思ってみたり。テンション高くて脈が速くなってるときに時間の経ち方が遅いと思ったりとかも?

 まぁ他人との体感時間を比べることはできないので、自分が駆け足で時を感じているかどうかはこの際どうでもいいんですが。

 つことで、平常時で100ぐらい脈拍がある光希桃ではありますが、さすがに寝起きはそんなにちょっ速でもなく、この前計ったら88回/分でした。で、寝起き10分ぐらいの朝イチでアニメを見出すんですが(平日は録画見)、再生したアニメOPが体感的に軽く早廻しになるんですよ。毎週同じタイミングで同じアニメを見てるわけではないので、脈が平常値のときにも見ているアニメですから、その違いがよくわかるんですね。

 一番よくわかるのはまめうしくんのOP。平常時なら ♪まーめまめ まめまめうしくん ですが、寝起きに見ると ♪まめまめまめまめうしくんと、ほんのり時短状態に(わかりにくい)。最初はそういった体感時間の違いを自覚してなかったので、「尺が足りなくてOP縮めたのかしら?」とか思いました。本編だけ見ててもほとんど自覚できない差だったので、まさか自分の感覚の方がズレているとはなかなか。

 あと、しゅごキャラ!のOPなんかでも結構体感できます。

 だいぶ感じられるようになったので、今ではOPじゃなくても、その体感時間の違いが多少はわかるようになってきました。自分としては、ちゃんと起きてないことを判断できる新尺度として意外と便利に使っています。「(OPが)早い早い、あぁもう起きろ自分ッ!」のように。

 ここから思うに、寝起きの朝イチで見るアニメ(アニメに限らんけど)は、同じ30分番組であっても、体感的には20分(朝イチと平常時で1.5倍の差がある場合)ぐらいに感じてしまうのではないかと。まぁ時間感覚が狂うというだけではないので「分」で示すのもちょっと変ですかね。「平常時に20分で感じられる情報量しか30分で処理できない」と書く方が正確かな? 体感的に「早い」と感じていても、「じゃあ何秒?」っつーとちゃんと合ってたりするし。

 ここまでの話からすると、「寝起きで見られると予想されるアニメは、視聴者の体感時間が遅くなっていることを考慮した情報量で作るべき」ということになりますが、「寝起きで見られると予想されるアニメ」ってのはつまるところ子ども向けアニメでして、子どもってのはデフォルトで脈が速いわけで、通常の成人向けアニメぐらいの情報量(情報密度)で作ってちょうどいいということになり、そういう意味では理にかなった放送時間とも言えますね。展開が遅くなった ONE PIECEが朝アニメに移動したのもある意味正解か!?

 幸い光希桃の脈はお子さま並なので、さほど意識しなくてもそれほど問題があるようにはなっていないと思いますが、いい歳してまでアニメを見続けるには、この体感時間をコントロールするというスキルが必要になってくるのではないかと思いました。やりすぎると不整脈になる気もしますが。

 この論からすると、一番脈拍を必要とするのは、夕方時間帯のキッズアニメですね。情報量MAXで詰め込めるだけ詰め込んだ作品が生き残れる場所?

 脈を通常値まで落とすと現状の時間分解能がなくなるというのなら、寿命が短くても子どもと同じ時間感覚を持ち続けたいものです。