「本家に書くのも何なのでこっち」

去年の記事だけど、何か今日、目についた。

働きたくないというあなたへ
働きたくないというあなたへ2
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働きたくないというあなたへ10
働きたくないというあなたへ11



働きたくないでござる。

いろいろ書いてあるし、考えさせられるところもあるけど、これもまたひとつの意見でしかないということは忘れないようにしたい。

社会と関わること、社会貢献することが「仕事」でしか実現できなかったのは、もうだいぶ過去のことな気がする。ホームページだろうが、ブログだろうが、ツイッターだろうが、簡単に世界中に発信できる時代になってしまった。例えば小説を書いたとして、ネットがない時代であれば、同人誌なり出版社への持ち込みなり、ある程度の努力やコストを払わなければ世に出ることはできなかったし、他者が必要であるから、必然的に多かれ少なかれ「仕事」になってしまうという構図があったと思う。

「働かない」=「代価を得ない」というのは、必ずしも社会と関わっていないということにはならなくなってしまったと思う。

「他者からの感謝の言葉を得る」という仕事の喜びにしたって、それこそオンラインゲームでヒーリングをかける人にだってありそうなもの。攻略サイトを作ったって、萌え絵を描いたって、感謝されることはあるし、役に立っているとしていいことだと思うの。でもそれは「仕事」ではない、あくまでお金の発生しないただの趣味の範囲。

楽しくもない、何の役に立っているのかよくわからない、特に感謝もされない…そんな「仕事」と、「楽しい」「誰かの役に立っているのが目に見えてわかる、想像できる」「たまに感謝される」…そんな「趣味」があるとするならば、「仕事」より「趣味」を優先するという行為は、「社会とのつながりを断っている」ことにはならないのではないか。

「働くこと」のメリットが「金」だけになってしまっては、つらいばかりで、「お金はほしいけど働きたくないでござる」になってしまうよね。

「働かない」=「遊んで暮らす」というイメージであれば、働かないのはつらいのかも知れない。アウトプットのない、つながりのない日々。浪費だけで何も生み出さない日々。何かを得ても誰の役にも立てられない日々。

だが、実際のところは、「働かない」=「遊んで暮らす」ではないし、ただ「稼ぎがない」というだけになった気がする。

他者の役に立つ、社会貢献する…というのは、もはや仕事じゃなくてもできてしまう。仕事という枠組みから外れて、自分の思うように社会貢献できる、そんな世の中になりつつある。

そうであるならば、働かないものを働かせる方向に動かすのではなく、働かなくても(仕事に就かなくても)生きることができる社会を目指す方向に動くべきではないのだろうか。他者と関わらなくては、社会貢献せずには、社会とつながっていなければ、生き(活き)られない というのであれば、仕事にそれを求める人は仕事をするだろうし、そうでなければ仕事とは別の形で実現することになる。全員が「仕事」をしないとなると困ってしまうけど、バランスよく存在するのであれば、「働かない」人がいても、社会としてはさほど困らないというか、特に変わらないとも思える。

そもそも、他者の役に立つ、社会貢献する…ということ自体が本来「仕事」「働き」なわけで、他者の役に立って社会貢献している行為が「仕事」「働き」にならないというのは変な話なんですけどね。

そういう意味では、「他者の役に立って社会貢献している行為」=「仕事」を「無償」でするのは間違ったことだし、もしそれを有償でやっている人がいたならば、迷惑を掛けることになる。自由競争の枠組みからも外れているし、「仕事」という概念を壊す行為であるから、罪に問われてもおかしくないのかも知れない。

漫画・パーマンにこんなくだりがある。

パーやん「それで、きれいな貝がらなんかでものを買えるように申し合わせた。 これがお金の始まりや。」
パーやん「この場合の貝がらは、ものをとったり運んだりする「はたらき」を形にあらわしたものなんや。」
パーマン「へー……。」
パーマン「だけど貝がらとコピーのお金と、なんの関係があるの?」
パーやん「まあ、つづきを聞きなさい。」
パーやん「この貝がらの値うちは、あくまで「はたらき」あってのものなんや。」
パーやん「もし、だれもが貝がら集めに夢中で、働くのをやめたらどうなる? 世の中メチャクチャや。」
ビ・ビ・ビ・ビ
パーマンバッジの音
パー子「銀行強盗よ。」
パーマン「ウーン、悪いやつめ!!」
パーやん「強盗が悪いのはなんでや。」
パーマン「人のお金を横取りすりゃ悪いにきまってら!!」
パーやん「そのとおり!!」
パーやん「つまり、なんの「はたらき」もないのにお金だけほしがるのは、人の「はたらき」を横取りするのとおなじことなんや。」


藤子・F・不二雄大全集 パーマン(8) 「お金の始まり」より
※注釈は光希桃

FFランドだと11巻収録です。

「貝がら」のところを「お金」にして部分抽出すると、「お金は、「はたらき」を形にあらわしたもの」ということが書かれている。
また、「なんの「はたらき」もないのにお金だけほしがるのは強盗とおなじ」とも書かれている。

では逆に、「あきらかな「はたらき」があるのに、お金を取らない」というのは悪いことにならないのか。「はたらき」は「お金」になり、「お金」は「はたらき」になる…その循環を壊す行為。いや、それは大丈夫か。タダで魚を捕ったり運んだりあげたりする、ただの厚意だ。お金ができる前でもありそう。行きすぎなければ軽くにらまれるぐらいで済みそう。赤字覚悟の安売りと同じ。

じゃ、大丈夫ということで。

がんばって引用したけどいくらか脱線になってしまった。でも「お金」と「はたらき」=「社会貢献」という話としては、これを出しておかないと、前提が足りないのでいいのです。

つまり、「働きたくないでござる」というのは、「社会貢献したくないでござる」「社会と関わりたくないでござる」「この社会で生きたくないでござる」「生きたくないでござる」というのを言ってるのとおおむね同じになる。

でも、上で書いているように「働きたくないでござる」の対象が「仕事」だけで、「はたらき」ではなく、「仕事」とは別の「はたらき」を見いだせているのなら、「社会貢献したくないでござる」にはならない。ただ「「仕事」という形で社会貢献したくないでござる」と言っているだけになる。

ということで、なぜ勤労が義務で、職に就くことを強く推奨されるのかというと、「お金」と「はたらき」でできている社会の輪の中から外れてくれるな、ということなんだと。

そう思った上で、「働きたくないでござる」。

「はたらき」としては、アニメファンのために何かしたい。