「切る理由?見る理由?」

 もう結構前の話になりますが、某アニメを見てる/見てた ということを話した際に、

「何で切らないんですか?」

と、言われたことがありまして。何気ない言葉だったのですが、自分としてはその言葉が妙に引っかかってしまいました。この引っかかりが何かと考えてみると、このアニメ多量供給時代において、

  • 切ること:理由はいらない
  • 見続けること(切らないこと):理由が必要

という新基準に違和感=引っかかり を覚えていたからなんだと気づきました。自分の感覚的には、別に自分のように何でもかんでも見続けるようにするのが当たり前とかまでは言うつもりはないけど、

  • 切ること:切る理由があること
  • 見続けること(切らないこと):切る理由がないこと

という感覚があって、「切る理由(作品の悪いところ)を探しながら新番チェックをするのが嫌」というのも多量見をする理由のひとつとしてあったりするわけです。見られる本数が限られている中、どーでもいい切る理由を探しては新番を切り捨てて本数を調整していく…そういう感覚が意外と心苦しくて、「見続ける」前提で「切る理由探し」を放棄した結果、現状の多量見に行き着いた…という一面もあります。

 でも、新基準においては、デフォルトが「切る」であるから、切ることに対する心苦しさ(罪悪感)がなく、積極的に見続けていく理由がある作品のみを見ればいい、という感覚に置き換わっているようなのです。新番チェックでするのは「切る理由探し」ではなく、「見続ける理由探し」…言い換えれば「よかった探し」、減点方式ではなく、加点方式。

 考えてみれば、これだけアニメが溢れている世の中なら、こういう考え方は至極当然でした。…が、自分にはそれまでそういう感覚があることを考えられずにいた、と。

 で、話を戻すと、「何で切らないんですか?」と言われた際に、「えっ?切らないことに理由がいるの?」という軽いジェネレーションギャップみたいなものを、感じていたということではないかと、今にして思うわけです。確かに、どんな作品でも楽しむことができる多量見スキルは多少持ち合わせていようとも、向こうの思うような「積極的な見続ける理由」がある作品はそれほど多くなく、その「何で」の問いに対しては「切るまででもない理由」はあっても、強い「見続けたいと思う理由」は特にない…つまり回答に詰まるワケでして。

 逆に、そういう新感覚の人に、「何で切ったんですか?」と聞いたら、回答に詰まるのかも知れないな。

「アニメを見て、見続ける番組を選ぶ」という点では全く同じなのに、感覚的にはずいぶんな違いがあるんだなぁ…と思った出来事でした。まぁ実際のところはそんな両極端な話ではなく、見る理由と切る理由のバランスで見続ける作品を選んでいるというのが大多数なんだろうけど。

 自分としては、ちょっと合わないかな? と思えるようなものであっても、見続けることで見えてくるもの(開眼)もあると思うので、ちょっと合わないと思うこと自体が「見続ける理由」になっているのかも。合うアニメはそのまま見たいわけで、結局全部見たい、と…。